リンカーンと二宮金次郎

北海道報徳社の事業

①報徳の研究、実践普及、啓蒙

②報徳を内容とする研修会の開催

③地域報徳集団の育成

④報徳についての表彰

⑤報徳情報等の発行、図書の斡旋

⑥講師の派遣

⑦その他目的達成に必要な事業



北海道報徳社の沿革

1.北海道の開拓と報徳
 
 安政2年(1855年)に北海道開拓についての調査立案を函館奉行竹内保徳、堀正熈らが幕府を通じて二宮尊徳(68)に依頼したが当時日光89ヶ村の経済復興に全力を注いでいたのと、発病の故を以て断られた。

2.試験場が手始め

 安政5年(1858年)二宮尊徳嗣子尊行の門弟相馬藩士新妻助惣が函館奉行付を命ぜられ、他に同藩佐々木長左衛門、大友新六及びこれ等に同行の大友亀太郎が来道、まず木古内、七飯の御手作場(官営試験場)の開発に着手した。

3.札幌開発と報徳
 
 慶応2年(1866年)大友亀太郎は石狩開発を命ぜられ、札幌元村に入地、今の札幌駅近くから開拓に従事したが、その讙漑用水路として現在の札幌市内を貫流する創成川(当時大友堀と称す)を掘削し札幌本府設置の緒をなすと共に札幌市開発の礎を造った。

4.復興社事業と十勝

 明治30年(1897年)4月、二宮尊徳の嫡孫尊親が福島県相馬郡石神の人達を連れて復興社事業を十勝国中川郡豊頃村に移して開墾事業を実施し、今日の豊頃町二宮に160戸を移民、1,300町歩(ha)を開墾した。

5.特別指導村は「報徳」を基盤
 
 日本が第一次世界大戦後に受けた恐慌の衝撃は大きく、極度の不況に見舞われた。北海道庁はその対策として特別指導村を全道にわたって設け、その基盤を造るために報徳を用いた。その後経済更正運動が起こるや更に報徳の浸透を期し、報徳の専門指導者を道経済部に専属せしめて道民の理解を深め、経済・生活及び共同組織の向上を図った。
 昭和13年(1938年)には道庁職員で庁内部に振興報徳会が組織され、之に伴って市町村長、学校長、産業組合長が多数報徳の研究を進め、農山漁村は勿論商工業の不振に対処した。

6.北海道振興報徳会生まれる
 
 昭和14年(1939年)1月に自治産業、経済の代表団体が集まって北海道振興報徳会を組織。昭和21年(1946年)には北海道報徳会と名称を変更した。

7.財団法人北海道報徳社の設立

 再建日本を一日でも速やかに実現して、国民生活を安定することと、協同組合の設立を記念して各産業団体、関係会社、市町村協同組合及び個人有志の寄付により500万円の基金を以て昭和24年(1949年)12月9日に設立された。